
こんにちは。あらすじブックマーク、管理人の「おうみ」です。
今回は、トーマス・マンの不朽の名作『ヴェニスに死す』について、小説版のあらすじを中心に掘り下げてみたいと思います。「ヴェニスに死す」と聞くと、有名な映画版を思い浮かべる人が多いかもしれませんね。でも、小説のあらすじを詳しく知りたいと思って検索してみると、この物語が単なる美しい話ではないことに気づくはずです。
読者によっては、主人公の行動が「気持ち悪い」と感じたり、これって同性愛の物語なの?と疑問に思ったり、ラストシーンの意味がよくわからない、と感じることもあるようです。また、小説と映画では何が違うのか、この作品は結局何が面白いのか、その核心を知りたいという方も多いのではないでしょうか。
この記事では、そうした疑問を解消できるように、『ヴェニスに死す』の小説版のあらすじを丁寧に追いながら、その背景にある哲学的なテーマや象徴、そして映画版との決定的な違いまで、じっくりと解説していきます。
- 小説『ヴェニスに死す』の基本的なあらすじと流れ
- 主人公が「気持ち悪い」と感じられる理由
- 物語の核心となる哲学的・象徴的な考察
- 有名な映画版と小説版の決定的な違い
ヴェニスに死す:小説のあらすじ徹底解説
まずは、物語の基本となる「あらすじ」から押さえていきましょう。主人公がどのようにしてヴェネツィアへ向かい、そこで何に出会い、どうなっていくのか。その心の動きを丁寧に追ってみますね。
小説の基本的な作品情報

『ヴェニスに死す』は、ドイツの文豪トーマス・マンによって1912年に発表された中編小説です。トーマス・マンといえば、後にノーベル文学賞も受賞するほどの巨匠ですね。
この物語が生まれるきっかけは、1911年のマン自身のヴェネツィア旅行にあると言われています。そこで彼が実際に目にしたポーランド人の美少年が、作中の「タジオ」のモデルになったそうです。さらに、執筆中に聞いた作曲家グスタフ・マーラーの訃報も、主人公の人物像に大きな影響を与えたとされています。
豆知識:デカダンス(退廃)文学って?
『ヴェニスに死す』は、19世紀末から20世紀初頭にかけて流行した「デカダンス文学」の系譜に位置づけられることも多いです。これは、既存の道徳や秩序が崩れていく様子を、退廃的(デカダン)な美しさをもって描くスタイルのことですね。
主要なあらすじと流れ
では、物語の具体的な流れを追ってみましょう。
発端:ミュンヘンでの停滞と旅への衝動

主人公は、グスタフ・フォン・アッシェンバッハという高名な小説家。彼はものすごく厳格で、禁欲的なまでの自己規律と勤勉さで、貴族の称号(フォンのことですね)を得るほどの社会的成功を収めた人物です。
しかし物語の冒頭、彼は深刻なスランプに陥っていました。そんなある日、ミュンヘンの墓地で異国風の「旅人」とすれ違ったことをきっかけに、彼は抑えがたい「南国への旅行欲」に駆られます。
船旅:不吉な予兆

衝動に抗えず旅に出たアッシェンバッハは、ヴェネツィアへ向かう船に乗ります。そこで彼は、若者たちに混じって騒ぐ、派手な化粧をした「若作りの老人」を目撃し、強烈な嫌悪感を覚えます。…これが、まさか未来の自分の姿の予兆だったとは、この時の彼は知る由もありません。
ヴェネツィア到着と運命のゴンドラ
ヴェネツィアに着き、リド島のホテルへ向かうためゴンドラに乗るのですが、このシーンがまた象徴的なんです。船頭はアッシェンバッハの指示を無視し、無免許でゴンドラを漕ぎ出します。黒いゴンドラはしばしば「棺桶」に例えられますし、船頭はギリシャ神話の冥界の渡し守「カロン」を暗示しているかのよう。
しかも、島に着くと船頭は船賃も受け取らずに消えてしまいます。これは、アッシェンバッハがもはや「日常(生)」の世界から「非日常(死)」の世界へ渡ってしまい、後戻りできなくなったことを示唆しているんですね。
終焉:コレラの蔓延と最後の選択
リド島の高級ホテルで、彼は運命的な出会いを果たします。それが、ポーランド貴族の家族といた、息をのむほど美しい少年「タジオ」でした。
アッシェンバッハは、タジオの完璧な「美」に一瞬で心を奪われ、長年築き上げてきた理性を失っていきます。一度は「このままではいけない」とヴェネツィアを去ろうとしますが、荷物の手違い(という都合の良い口実)でホテルに引き返すことに。彼はその偶然に歓喜し、もはや自分の意志でタジオのそばに留まることを選びます。
やがて彼は、タジオをストーカーのようにつけ回す日々を送るようになります。その頃、街にはインド由来のコレラが蔓延し始めますが、当局は観光客の流出を恐れてそれを隠蔽していました。アッシェンバッハもその事実に気づき、退去勧告も受けますが、タジオと離れることを拒否し、「死」の危険を承知の上でヴェネツィアに留まることを決意します。
美少年タジオとは何者か
この物語の鍵を握るタジオですが、彼は主人公のアッシェンバッハと一言も言葉を交わしません。
彼は現実的な人間というより、アッシェンバッハの理性を崩壊させる「きっかけ」なんです。まるでギリシャ彫刻のような「完璧な美の化身」であり、「美のイデア(理想的な姿)」そのものとして描かれています。
ちなみに、前述の通りモデルとなったのは、トーマス・マンが実際にリド島のホテルで見かけたヴワディスワフ・モエスという実在のポーランド貴族の少年だったそうです。
ラストシーンの意味を解説

物語のラストシーン、コレラに蝕まれたアッシェンバッハは、浜辺のデッキチェアに座っています。
彼は、かつて船上で嫌悪した「若作りの老人」のように、美容師に白髪を染めさせ、若々しい化粧を施していました。もはや芸術家としての威厳はどこにもありません。
朦朧とする意識の中、彼は遠くの海辺で遊ぶタジオが、自分の方を振り返り、遠くの海へと手招きするような幻影を見ます。その幻影を見つめながら、アッシェンバッハは静かに息を引き取ります。
ラストシーンの解釈
この最後の手招きは、タジオが彼を「美の世界(あるいは死の世界)」へと誘う(いざなう)象徴的なシーンだと解釈されています。アッシェンバッハは、理性を捨てて「美」そのものに殉じた、とも言えるかもしれませんね。
読者が感じる「気持ち悪い」感情の正体
この小説を読んで、「美しい」と感じる一方で、主人公の行動に「気持ち悪い」という嫌悪感を抱く人も少なくないと思います。私も正直、ちょっと引いてしまう部分はありました。
その感情の正体は、おそらくアッシェンバッハの「理性の崩壊」と「威厳の喪失」にあるんだと思います。
- あれほど嫌悪していた「若作りの老人」とそっくりな化粧を、自ら施してしまう姿。
- 高名な芸術家が、少年の後をただひたすらつけ回す、ストーカーのような行為。
- 疫病(コレラ)が蔓延する街から、美少年から離れたくないという理由だけで逃げ出さない選択。
これらはすべて、彼が人生をかけて築き上げてきた「理性」や「威厳」が、「美」への陶酔によって完全に破壊されていくプロセスです。その人間的な威厳が失われていく様が、読者に強烈な不快感や「気持ち悪さ」を感じさせるのではないでしょうか。
ヴェニスに死すのあらすじと小説の深い考察

さて、あらすじがわかったところで、もう少し踏み込んで、この物語がなぜこれほどまでに人々を惹きつけ、議論の対象となるのか、その核心に迫ってみたいと思います。
物語の哲学的・象徴的考察
この小説、実はドイツの哲学者ニーチェの考え方が色濃く反映されていると言われています。
アポロン的 vs ディオニュソス的
ニーチェは、人間の芸術的な衝動を2つのタイプに分けました。
- アポロン的:太陽神アポロンに象徴される、理性、秩序、規律、調和の世界。
- ディオニュソス的:酒神ディオニュソスに象徴される、非理性、陶酔、混沌、エロスの世界。
これを『ヴェニスに死す』に当てはめると、非常に分かりやすいんです。
アッシェンバッハの変化
- ヴェネツィア訪問前:厳格な規律と理性で生きてきた。
→ まさに「アポロン的」な世界の住人。 - ヴェネツィア訪問後:タジオ(美)に出会い、コレラ(混沌)が蔓延する街で、理性を失い陶酔していく。
→ 「ディオニュソス的」な世界に飲み込まれていく。
つまり、アッシェンバッハの死は、単なる病死ではなく、彼が守ってきた「理性(アポロン)」が、抑圧してきた「陶酔(ディオニュソス)」によって崩壊させられる物語だ、と解釈できるわけですね。
象徴としての「コレラ」
街に蔓延するコレラも、単なる病気以上の意味を持っています。当局によって「隠蔽されている」という点がポイントです。
アッシェンバッハがタジオへの禁断の執着(=内面の腐敗)を隠そうとする心理と、ヴェネツィアという都市がコレラ(=都市の腐敗)を隠蔽する構造が、見事にリンクしているんです。恐ろしいほど計算された設定ですよね。
映画と小説の決定的な違い
この作品について語る上で、ルキノ・ヴィスコンティ監督による1971年の映画版は絶対に外せません。ただ、映画のイメージが強すぎると、原作小説との違いに驚くかもしれません。
【比較表】小説と映画の主な違い
| 比較項目 | 小説(トーマス・マン原作) | 映画(ヴィスコンティ監督) |
|---|---|---|
| 主人公の職業 | 小説家 | 音楽家(作曲家) |
| 主人公のモデル | トーマス・マン自身が色濃い | グスタフ・マーラー(容姿も酷似) |
| 主要な音楽 | (特になし) | マーラー交響曲第5番「アダージェット」 |
| 全体のトーン | 知的、哲学的、分析的 | 情緒的、耽美的、ロマンティック |
| 対立する人物 | (登場しない) | 友人アルフレッド(映画オリジナル) |
最大の変更点は、主人公の職業が「小説家」から「音楽家(作曲家)」になっていることです。これは、ヴィスコンティ監督が、原作執筆時にマンが影響を受けたグスタフ・マーラーのイメージを、主人公に色濃く反映させたかったからだと言われています。
そして、映画を象徴するのが、全編に流れるマーラーの「アダージェット」です。この甘美で切ない音楽が、タジオの美しさとアッシェンバッハの陶酔を際立たせ、映画を不朽の名作に押し上げました。
ただ、この音楽のせいで、小説が持つ「知的で哲学的な葛藤」という側面より、映画では「情緒的でロマンティックな苦悩」という側面が強調されている、とも言えるかもしれませんね。
読者の感想と評価まとめ
この作品、やはり読者によって感想は大きく分かれるみたいですね。
「美の恐ろしさ、人間の理性の脆さを描いた傑作」と絶賛する声がある一方で、「主人公の行動が理解できず、ただただ不気味だった」「難解で何が言いたいのか分からなかった」という感想も少なくありません。
特に、あらすじだけを追うと「老芸術家が美少年のストーカーになって破滅する話」に見えてしまいがちです。でも、その背景にあるニーチェ哲学や「美とは何か」という芸術論的な問いかけを知ると、物語の深みが一気に増すのかな、と私は思います。
ヴェニスに死す症候群とは?

「ヴェニスに死す症候群」という言葉を聞いたことがありますか?
私も今回調べてみて知ったのですが、これは医学的な病名や正式な心理学用語ではないそうです。どうやら、作家の平野啓一郎さんの小説『マチネの終わりに』の中で登場する造語のようですね。
ヴェニスに死す症候群の定義(とされるもの)
『マチネの終わりに』作中では、「中高年になって突然、現実社会への適応に嫌気が差して、本来の自分へと立ち返るべく、破滅的な行動に出ること」といった意味合いで使われているようです。
アッシェンバッハが築き上げてきた名声や規律(=現実社会への適応)を捨てて、タジオという美(=本来の欲望?)のために破滅していく姿が、この「症候群」のイメージの元になっているんですね。面白いネーミングです。
タジオ役の少年の現在の活動
小説のタジオには実在のモデルがいましたが、多くの人が「タジオ」と聞いて思い浮かべるのは、やはり映画版で演じた俳優ではないでしょうか。
映画でタジオを演じたのは、スウェーデン出身のビョルン・アンドレセンさんです。彼はこの映画で「世界で一番美しい少年」と称され、世界的なセンセーションを巻き起こしました。
しかし、その強烈すぎるイメージに生涯苦しめられることになった、とも言われています。近年のドキュメンタリー映画などでは、その後の彼の人生が語られており、作品が現実の人間にもたらした影響の大きさを感じさせられますね。
補足
「タジオ役の少年の現在」に関する情報は、主に映画版のビョルン・アンドレセンさんについてのものです。小説のモデルとなったヴワディスワフ・モエスさんとは異なりますので、混同しないようご注意くださいね。
まとめ:ヴェニスに死すのあらすじと小説の魅力
今回は、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』について、小説のあらすじと、その背景にある深いテーマを考察してみました。
この物語の魅力は、単なる「美しい悲劇」に留まらないところにあると思います。人間の理性が「絶対的な美」を前にしていかに脆く崩れ去るか、そして、芸術家が「美」に殉じていく(あるいは破滅させられる)様を、哲学的な深みを持って描き切った点に尽きるのではないでしょうか。
あらすじだけ見ると「気持ち悪い」と感じてしまうかもしれない主人公の行動も、ニーチェ的な「アポロン的 vs ディオニュソス的」という対立構造で見てみると、それは「理性の死」であり「美への殉教」という、恐ろしくも荘厳な儀式のように見えてくるから不思議です。
映画版から入った方も、ぜひ一度、トーマス・マンの緻密な心理描写と哲学的な問いかけに満ちた小説版を手に取ってみてはいかがでしょうか。
